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日蓮正宗の濁乱こそ、現在の日本の姿

(※この書簡は正信会の全住職に送付したものです。)

書状

御聖誕八百年という佳節を迎え、既に半年近い年月が経ちました。

このような佳節に未曾有の疫病が蔓延するのは、諸天が警鐘を鳴らしているものと思えてなりません。

そして、日蓮大聖人の門下にとって最も重要なことは、形式的な行事にとらわれることなく、今こそ真の御報恩の実践を行うことではないでしょうか。

昨年の、ある正信会報の記事の中で、現在の疫病蔓延のひとつの要因として日蓮正宗の混乱を挙げておりました。
具体的には次の通りです。

「(イ)正本堂建立の定義、(ロ)阿部日顕師の法主詐称、(ハ)阿部・早瀬合作の管長推戴会議の血脈滅茶苦茶論、(ニ)戒壇の大御本尊直拝の強制、(ホ)御生誕八百年の折伏数ウソ報告」(以上抜粋)

私もこれらの主張には概ね賛同しております。ただ、当該記事を読んだ当時には「(ホ)御生誕八百年の折伏数ウソ報告」については、正直何のことなのか、よく理解できませんでした。

後になって、大聖人様御聖誕八百年の佳節に当たって宗門は「法華講員八十万人体勢構築」の目標を立てていた事を知りました。

「八百年だから八十万人?」「『八』つながりで八十万?」このゴロ合わせのような目標を「誓願」として掲げ、躍起になっていたようです。

その事を正信会報で「御生誕八百年の折伏数ウソ報告」と指摘していたのだと推察いたします。

どこをどのようにして虚偽報告をしていたのかは定かではありませんが、様々な情報の中で、その報告数が虚偽に満ちていると言われたのでありましょう。

その話題は本年に入り、より真実味が増しました。

顕正新聞(令和3年4月5日号)の中で、浅野恭浩・男子部第五総部長の活動報告を目にした時、昨年の正信会報の「折伏数ウソ報告」の事を思い出しました。

早瀬管長が法華講連合会機関紙「大白法」(令和3年1月1日号)の記事で「見事、誓願八十万を達成することが出来た」と高らかに宣言していたことに対し、水島教学部長は未だに誓願は達成していない主旨の記事が掲載されていたようで、顕正新聞には、当の教学部長が住職を務める能安寺の関係者にその矛盾を尋ねたことが記されておりました。

私もその事を確かめるために、手持ちの資料「大日蓮(令和3年1月号)」をよく読みました。

確かに、早瀬管長は「新年之辞」の中で「今回、見事に誓願を達成することが出来ましたことを心からお祝い申し上げます」と述べ、誓願達成を高らかに宣言しておりました。

その前月(令和2年12月6日)の挨拶で早瀬管長自身が「折伏誓願の達成は御宝前に固く誓った約束であり、私どもは何があっても達成しなければなりません」と述べているように、12月6日の時点では誓願は未だに達成できていなかったことが分かります。

にもかかわらず、「新年之辞」ではその誓願が達成できたと宣言しているのです。

その一ヶ月弱の期間に一体何があったのでしょうか。

他の役僧の方々もさぞ誓願達成の喜びを分かち合っているのかと思えばそうではなく、ある役僧の挨拶では、「今年は、まさに宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節に当たり、御命題である『令和三年・法華講員八十万人体勢の構築』を成就する年であります」(抜粋)と、未だに誓願を達成していないことを窺わせる文が見られます。

他にも、「(早瀬管長は)平成二十一年以来の御命題は、達成してこそ、その価値があり功徳があると御指南されました。宿縁深厚にして大佳節の年に巡り会うことができました私自身、はたして御報恩の誠が尽くせたかと自問自答しながら、忸怩たる思いであります。新年を迎えるに当たり、心機一転、さらなる御奉公をお誓いするものであります」(抜粋)と、歓喜というよりも悲壮感がただよい、反省の気持ちが読み取れる原稿もありました。

昨今の「法主本仏」を謳う宗門が、法主に右へならえの文章に統一できなかったのですから、よほど困惑したに違いありません。

数ヶ月前のニュースになりましょうか。愛知県知事のリコール不正署名事件で、嘘と欺瞞に満ちたその実態が報じられました。

早瀬管長は、「八十万体勢構築」なるものを目指すことよりも、御遺命に背き続ける大罪を大聖人様にお詫び申し上げなければいけないところ、大聖人様に嘘と欺瞞の御奉告をするなど言語道断です。御本仏を冒涜するものと恥じるべきです。

そのような事を思いつつ、今一度、顕正新聞を読んでみると、なるほど各末寺においては、顕正会員への対応に苦慮していることが見て取れました。

昨年の正信会報の「御生誕八百年の折伏数ウソ報告」という指摘は、現状の宗門の醜態を顕していることがよく理解できました。

今の宗門は、時の「御法主上人」に信服随順することが正しい信仰だと思い込んでいるようです。御遺命を奉じ広宣流布に邁進する正しい御方であれば、当然、そのようにすべきでしょうが、御遺命に背く人に信服随順すれば、日蓮大聖人に背き奉ることになります。

「法師の皮を著たる畜生」が「生き仏」と崇められてしまえば、もうその教団にブレーキは効きません。少しでも疑義を生じたものは追放され、残った教団内部は恐怖と堕落のみが待ち受けているだけです。

今の宗門は、法主が「八十万達成」と言えば、結果がどうであれ、達成したことにしなければならないのです。

今回の早瀬管長が突然、誓願を達成したと言い出したことに対し、宗門内部でそれに意見する僧侶はいなかったのでしょうか。

阿部日顕師が受けてもいない相承を受けたと嘘を言った時、当時の正信会は阿部師の法主詐称を責めました。結果、正信会僧侶は宗外に追放されることになりました。

阿部師は、その後も自らを正当化するために、宗内の規則に則り選定された宗会議員(日本における国会議員)や監正会員(日本における裁判官)の意見や決定に対し、気に入らないからという理由だけで自分に敵対する僧侶をことごとく追放処分にしました。

本来、日蓮正宗内において規則が存在し、宗会(立法)や監正会(司法)が存在する目的は、権力者の暴走をコントロールするためであった筈です。

しかしながら、阿部師自身とその取り巻きたちは、自らの野望と欲望のために「法師の皮を著たる畜生」を生き仏にしてしまったのです。

阿部日顕師はお構いなしに、自分に敵対する正信会僧侶や、果ては創価学会員さえも、全て宗外に追放してしまったのでした。

その後は、宗門の誰しもが法主に右へならえとなり、時の「御法主上人」に信服随順することが日蓮正宗七百年来の伝統とばかりに、誤った信仰姿勢が僧侶や信徒に刷り込まれていきました。

彼らの言う「教学」とは、生き仏が述べた己義を正当化するために、宗開両祖の文献を調べ、それを無理矢理にでも当て込んだり、歴代上人方の言葉をねじ曲げて悪用したりすることと勘違いしているようです。

第二祖・日興上人は「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と仰せになっておられるにも関わらず、この御遺誡をも蔑ろにしてしまったのです。

そのことは、正本堂建立にあたっての「事の戒壇」についても同じことが言えます。

当時、妙信講の浅井昭衛・現顕正会々長は、再三にわたって日達上人をはじめ宗門の役僧と会談をされ、そして諫暁をされました。

にもかかわらず、最終的に出された日達上人の「正本堂」についての訓諭が、「正本堂は一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」だったのです。

この訓諭は、当時の創価学会の権力・金力に諂ったがために、御本仏・日蓮大聖人の御心に反した由々しき己義と断じて憚りません。

本宗七百年来の宿願たる「国立戒壇」を歴代上人方は正々堂々と御指南してこられました。その「国立戒壇」を日達上人は次の理由で捨て去りました。

「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対し、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました」「今日では『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします」と。

当時の創価学会が政治野心のために公明党を結成し、その野望を擁護するためだけに御遺命の「国立戒壇」を捨て去ったのです。

今や、その日達上人も御遷化され、正本堂も阿部師によって取り壊されました。当の阿部日顕師も亡くなり、同じく宗外に追放された創価学会も正本堂については触れもしません。正信会が誰に憚ることなく客観的に当時の正本堂の意義について検証する良い機会ではないでしょうか。

正信会僧侶は、当時の権力に屈することなく宗門を糺して参りました。それは御自身たちこそが日蓮大聖人の真の仏弟子だと確信していたからではありませんか。

たとえ時の貫首上人といえども日蓮大聖人の教えに反し、絶対的な権力を振るうそのような法主を作り上げてはいけないという思いから運動を起こされたのではないでしょうか。

「体曲れば影ななめなり」との御金言どおり、本来、日本国を救済すべき日蓮正宗の姿が、そのまま一国に反映されるものと私は確信しております。

しかるに現在の宗門は、日蓮大聖人の御遺命に背き続け、濁悪まみれで混乱の一途を辿っております。

ゆえに「立正安国論」の如く、大地が震動すること数知れず。火山の噴火、竜巻、台風、豪雨、そして今般の大疫病。そればかりではありません。自殺者の増加。いじめ・差別。政治家や官僚の汚職・腐敗など、「悪鬼乱入」から引き起こされていること明白です。

今、宗門も日本国も、現状は悪化するばかりです。

「我らこそ富士の本流」と主張し、崇高な志を抱く正信会の僧侶方は、一体何をしておられるでしょうか。

自らの寺院と御信徒ばかりを庇うだけの草臥れた隠居生活で一生を終えるのでしょうか。

かつてのような正法正義を振りかざす「刃」は、もう錆びてしまったのでしょうか。

このような中、いま我々がやらなければならないことは、戒壇の大御本尊様を信仰し、日蓮大聖人の御遺命たる国立戒壇を高らかに謳い、御遺命に違背した宗門を糺すことではないでしょうか。

そして、国立戒壇建立を見つめ折伏行を行っている顕正会と手を携えて共に闘うべきです。

その先には、本門戒壇の大御本尊を末法における唯一無二の大御本尊と信奉する者たちが再び結集し、将来において英邁な御法主猊下が現れた折には、その猊下の指揮のもと広宣流布を成し遂げ、その暁には必ずや大聖人様の御遺命たる「国立戒壇」の建立が実現できることを信じております。

本年は、そのための元年(始まりの年)とすることが、日蓮大聖人の真の末弟の姿であり、誠の御報恩となると確信しています。

皆さまの決断を改めて促すものであります。

以上